爽快な感動
歴史に名を残した人が、実はどのような人柄で、どんなことを感じたり考えたりしていたのか、遠く時を隔てて想像することはできても、その真実に迫ることは容易ではない。ましてや、名もなき人々に至っては。事象を羅列した歴史の教科書や年表をひもといてみても、そこに生身の人間を実感することはとてもむずかしい。 これをやすやすとやってのけてくれるのが、小説家と呼ばれる魔術師なのだろう。そこには、書き手の視点や狙いに応じた嘘八百が並べ立てられる。たとえば「結婚」という事実に、逢瀬のときめきや別れの切なさを描き出すことで、温もりや匂いのあるひとりの人物としてわたしたちの眼前に登場してくる。 榎本武揚。函館五稜郭の戦いの中心人物という程度のことしか知らなかった私にとって、この作品に描かれた武揚は、読み進むにつれ、自分の無知を恥ずかしく思うと同時に、いつしかとても親しくさえ感じられてきた。これまでに読んできた幕末・維新期を扱った他の小説にはなかった切り口、立場が新鮮であったことも確かだが、それ以上に、作者が真っ向からこの人物をとらえようとしている姿勢のようなものが強く強く感じられて、ときには、武揚=作者のような錯覚を覚えたものだった。 予期さえしていなかったほどのすがすがしい感動、爽快な読後感に、しばしの間、胸の動悸も鎮まらなかった。作者は、物語の後述として、その後の武揚の事跡を淡々と綴られているが、叶うならば、戦いに敗れてから晩年に至るまでの武揚について、書いてもらえたら…と、欲張ったことを願ってしまう。
佐々木譲の視点
一気に上下二冊を読みきってしまった。さすが佐々木氏の人物描写は読ませるものがあり期待を裏切りません。しかし、私にとって著者の魅力はなんと言っても第二次世界大戦三部作からでもわかるように、また五稜郭残党伝からも伺えるように、歴史の波にいやおうなく飲み込まれながらも必死に自分の信じる道を進もうとしている、名前も残らないような人たちの生き様ではないだろうか。たとえそれがフィクションだとしてもだ。榎本武揚はあまりにも有名すぎて…そういう意味で星4つにしました。
斬新な歴史観を冒険小説スタイルで味わう!
佐々木譲と言えば『エトロフ発緊急伝』をも含めて、自身の住む北海道(蝦夷地と言ったほうが嵌まるか……)を題材にした小説が持ち味である。とりわけ五稜郭を起点にした幕末蝦夷ものである『五稜郭残党伝』『北辰群盗録』等々ぼくは傑作だと思うし、何よりも蝦夷地開拓にまつわる国家的暴力のさなかで、無骨だがサムライらしい生きざまを貫く夢多き男たちを描かせては佐々木譲という作家は無敵であった。その佐々木譲が、空想上の人物から離れ、歴史上の幕末/維新という激動を戦った中心人物に焦点を当てる……まさに真っ向、直球勝負で挑んできたというのが、何よりもこの作品最大の価値! ある意味、真の海洋冒険小説でもあれば、歴史大河小説でもある。伝記のようでありながら、30歳代前半で五稜郭戦争を迎える榎本武揚に焦点を置く。明治維新後の武揚の人生はもっとずっと長いものであったにも関わらず、ここに綴られた若き10年間ほどの物語が、やはり五稜郭の戦いに向かって収斂して行くのだ。 幕末というのは奇麗事でもなんでもなく、?肉を食らうようなハゲワシどもの戦いであった。その中で真のサムライから真の人間になろうとして投げ出された命の数々への賛美に満ちた、大変に美しい物語がここに確実にある。理性よりも感傷で読み、論理よりも心で打たれてしまう。佐々木譲という作家のすべてが賭けられた、紛れも無い最高傑作だろう。 司馬遼太郎『燃えよ剣』・戸川幸夫『山嶽巨人伝』と3点セットで読むと、幕末という時代における物語の厚みが味わえるはずである。
中央公論新社
武揚伝〈下〉 ベルリン飛行指令 (新潮文庫) 地の日 天の海 上
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